掲載:2012年 vol.12
毎年2月の旧正月に開催される「長崎ランタンフェスティバル」。
2013年は20周年を迎え、長崎の街は、ますます華やかに彩られることでしょう。
今回は「光」をテーマに、異国情緒あふれる港町の姿をご紹介します。
古くから港町として栄え、江戸時代の鎖国政策下で、ポルトガルやオランダなど西欧との唯一の交易窓口「出島」が置かれた長崎。国内で最初に西洋文明を受け入れる国際都市として、大きく発展してきました。
また、日本列島の西方に位置することから、海を隔ててすぐ隣の中国とも、交流がありました。かつての上海航路には、長崎人がまるで隣町に出かける気軽さで、鞄も持たずに乗ったと言います。そのため長崎には、中国の影響が色濃く残っています。唐寺や眼鏡橋、唐人屋敷跡などの史跡のほか、ちゃんぽんや皿うどん、桃饅頭など今や長崎の代名詞とも言える料理も、実は「唐文化」がルーツなのです。
さらに、冬の一大風物詩「ランタンフェスティバル」は、もともと新地中華街の人たちが町の振興のために旧正月(春節祭)を祝う行事として始まったもの。今では新地中華街を中心に、毎年約1万5千個ものさまざまな形・大きさのランタン(提灯)が長崎の夜を艶やかに彩ります。
長崎の市内はもちろん五島列島などの島々には、美しい教会が数多く点在しています。
長崎にキリスト教が伝わったのは1550(天文18)年。フランシスコ・ザビエルが平戸に上陸し、布教を始めると、信者は一気に増えていきました。しかし、その影響力の大きさを危惧した豊臣秀吉や、後に続く徳川幕府はキリスト教を迫害。1639(寛永16)年から200年以上続く鎖国時代も合わせると、信者は250年以上も弾圧され続けたことになります。
1859(安政6)年に鎖国が解かれ、長崎も開港すると、多くの外国人が来日。居留地に暮らす外国人のために、「フランス寺」と呼ばれる大浦天主堂が建てられました。さらに1873(明治6)年にキリスト教禁制が撤廃されると、人々は木造やレンガ造りの教会を次々と建立。こうした長崎の教会群は、その歴史的価値や美しい建築デザイン、地域とともに形成する文化的景観から、現在はユネスコ世界遺産への登録が申請されています。
大浦天主堂をはじめ、中町教会、浦上天主堂、水ノ浦教会(五島)など長崎の多くの教会の窓には、美しいステンドグラスが設置されています。赤、青、緑、黄などとりどりのガラスを通して静かに光が差し込む様子は、荘厳な祈りの場をさらに神聖なものに感じさせます。歴史の中で幾度か修復を重ね、「創建時」「改築時」「原爆後の修復時」と、幾世代ものステンドグラスが残っている教会も。見つめるほどに、時代をこえて人々の祈りを受けとめてきた重みが伝わります。
「世界新三大夜景」にも選ばれた長崎の夜景は、海や街並、山々と変化に富んでいます。山の頂上近くまでびっしりと建てられた家々の灯りは、星屑を散らしたように美しく、思わず見とれてしまうほど。地元の人にたずねると、自分のお気に入りの夜景スポットを教えてくれますが、中でも「稲佐山山頂展望台」から眺める夜景は特におすすめだといいます。ここは、標高333メートルの高さから長崎市内を望む展望台で、正面にベイエリア、右手には南山手、左手奥には浦上エリアまで見渡すことができます。
また街中では、大浦天主堂や眼鏡橋、水辺の森公園のベイエリアなど、新旧名所のライトアップもあり、いずれも幻想的な雰囲気が楽しめます。
天然の良港であり、近海に好漁場を持つ長崎は、古くより漁獲物の水揚げも盛んでした。
開国に伴ってポルトガル船の乗組員が航海術を伝える一方、池田与右衛門入道好運という人がポルトガル人船長とともにルソンなどに航海し、自ら航海・運用術を記述。これは『元和航海記』といい、日本における天文学や航海術の発達に、大きく貢献したと言われています。
航海に欠かせないものの一つに「灯台」がありますが、日本では今から約1,200年前、九州地方の岬や島で、昼はのろしを上げ、夜は篝火を燃やして船の指標にしたのが始まりとされます。それが時代とともに、現在の灯台へと発展しました。日本で一番島が多い長崎県は、国内で最も長い海岸線を持ち、灯台や灯標も多く設置。日々、出入港する船舶を安全に導いています。