透析を受けながら活躍する人々

掲載:2019年 vol.35

山本 薫さん
仕事のかたわら、4つのバンド活動をしている山本さん。担当はボーカル。
「子どもの頃から歌が大好きで、コンテストにもよく出ていました。母も応援してくれましたね」。

7年前、在宅血液透析に移行。
時間を自由に使えるのが良いですね。

山本 薫さん

和歌山県腎友会 理事長

山本 薫さん
1970年、和歌山県和歌山市生まれ。小学校5年生の頃に健康診断で尿たんぱく・潜血を指摘される。その後も不調を感じながら、成人して結婚を機に詳しく検査したところ、腎臓の機能が大きく低下していたためすぐに入院。約3か月後に退院し、保存期を過ごすが、多忙な日々を送っていたこともあり1年後に血液透析を導入。33歳の頃に腎臓移植手術を受ける。しかし適合せずに、1年半後に再度透析導入。7年前、在宅血液透析に移行。現在は仕事のかたわら、和歌山県腎友会と4つのバンドの活動をしている。

最初に透析をした時、
一生続けていくのだと思い、涙が出ました。

 私が透析を導入したのは、21歳の時でした。小学校5年生の頃に健康診断で、尿たんぱくや潜血があるという結果が出て、中学生の時も検査入院をすすめられたのですが、当時はクラブ活動が厳しくて、休むという選択はなかなかできませんでした。なんとなく体調が良くないとずっと感じてはいたのですが、その状態にも慣れてしまうんですね。
 そうして地元の高校を卒業後、大阪や東京で働き、結婚を機に和歌山に帰ってきて検査を受けたところ、医師から「すぐに入院しなさい」と言われて、腎臓の機能がだいぶ低下しているのを知りました。入院してからは「とにかく安静に」ということで、ほぼベッドに横になり、塩分を控えた専用の食事を摂って、利尿剤なども服用しました。すると、体がとても楽になって。以前のだるさも解消されて、こんなに違うのかと驚きました。私はとにかく動いていないと嫌だと思う性格なので、自宅療養よりも入院して環境を変えるのが良かったんですね。2、3ヶ月後に退院する時、医師は「このまま注意していれば10年は保存期として過ごせる」と言ってくださいました。でも退院した途端、やっぱり忙しい毎日に戻ってしまいました。1年ぐらい経った頃、食事の味がわからなくなり、体が動かなくなって呼吸困難になったんです。すでにシャント手術も行っていたので、すぐに透析を始めることになりました。
 透析のことは最初に入院した時に教えてもらったし、将来的には見据えていたはずでしたが、導入の時にならないと実感はわかないものです。最初の透析で、自分の血液がダイアライザーを通っていく様子を見た時に、「この生活が一生続くのだな」と思い泣きました。一方、ショックな気持ちとは反対に、体はスッと楽になりました。むくみやだるさは取れ、味覚も元に戻っていく中で、「小さい頃からの不調は、やっぱり腎臓に原因があった」と思いましたね。
 その後すぐに腎臓移植の登録をしました。私は子どもがほしくて、移植後の方が妊娠の可能性が高くなると聞いたことも登録理由の一つです。33歳の時、ドナーが見つかったという連絡をいただいて手術をしました。でも残念なことに適合せず、1年半後に透析を再開。今は自宅で在宅血液透析をしています。通院していた頃は週に3日・4時間の透析から始めて、1回あたりの時間を少しずつ延ばしてもらっていましたが、その分他のことができなくなります。また、決まった曜日や時間に通院しなければならないので、時間に縛られる感じがとても窮屈で。そこで在宅透析に切り替え、現在は毎日夜に平均3時間行っています。私は仕事の他にバンド活動もしているので、とにかく時間を自由に使えるのがうれしいですね。
 それから、私は和歌山県腎友会の活動もしています。透析導入後すぐに入会して、25歳頃にイベントに参加したのをきっかけに、積極的に関わるようになりました。青年部長を経て、昨年から理事長を務めていますが、その中で患者会の歴史を知り、先人の努力や苦労を思うと、こうした活動がいかに大切か実感します。今の医療やサポートに感謝しながら、守っていきたいですね。
 これまでいろんな大変なことがあって「波乱万丈な人生」だと思うこともありますが、もともとポジティブな性格なので、つらいこともその日寝たらそれで終わり。そして毎日が忙しくて、それが良いことだと思っています。
山本 薫さん

パワフルで温かな印象の山本さん。「でもね、意外と涙もろくて」と照れ笑い。頼りにされると一層がんばる姉御肌ゆえに、山本さんのもとにはさまざまな相談や依頼が持ち込まれる。

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