異国情緒あふれる祈りと恵みの島
南風(はえんかぜ)香る天草

掲載:2017年 vol.28

天草

熊本県の中心部から南へ進んだ先に、大小さまざまな島々が浮かぶ、天草諸島があります。
海に囲まれた地理や気候にも恵まれたこの地は、風光明媚な絶景の数々や、人々の温かい人柄、里海の美味などたくさんの魅力にあふれています。
また、キリシタン文化が育まれた、歴史的に重要な地域でもあります。
今回は、天草の見どころをたっぷりとご紹介。
ぜひこの春訪れて、島の南風を感じてください。

3つの海に囲まれた、おだやかで美しい景色が魅力の「天草」。

 熊本県の南部。九州本土と天草五橋の一つ「天門橋(てんもんきょう)」で結ぶ大矢野島を越えた先に、天草があります。天草は、天草上島(かみしま)と天草下島(しもしま)を中心に、周囲の大小の島々で構成されています。大矢野島と天草上島の間に浮かぶ約20の島々は「天草松島」と呼ばれ、宮城県の松島、長崎県の九十九島と並んで「日本三大松島」の一つに数えられる風光明媚な景勝地です。
 天草は3つの海(有明海・八代海・東シナ海)に囲まれており、その豊かな恵みを感じられる島でもあります。水平線に沈む夕陽の素晴らしさから、西海岸地域には「天草夕陽八景」に数えられるスポットがあります。またさまざまなマリンスポーツが充実しているほか、新鮮な魚介や天然の塩などの美味も豊富。一年を通して楽しみが尽きることはありません。

地図
   
前島橋(四号橋)

前島橋(四号橋)

中の橋(三号橋)

中の橋(三号橋)

天草五橋
熊本県の宇土半島の先端にある三角(みすみ)から、天草上島までの島々をつなぐ5つの橋。一号橋から五号橋の間で2つの国道が重なるルートは、天草で真珠の養殖が盛んなことから「天草パールライン」と呼ばれている。

キリシタン文化の繁栄を経て、数奇な運命を辿った歴史ある島。

天草四郎像

天草四郎像
天草キリシタン館敷地内の天草殉教公園に立つ、天草四郎像。この他にも、天草には4体、島原に1体の四郎像が建立されている。

 天草の歴史を語る上で欠かせないのは、キリシタン文化でしょう。天草にキリスト教が伝わったのは、今から450年前。1566(永禄9)年にポルトガル人のルイス・デ・アルメイダ氏よってもたらされました。下島の志岐には教会が建てられ、その後日本国内で布教していた外国人宣教師が次々と来島して宗教会議も行われました。信仰は次第に広まり、信者や教会堂も増加。1582(天正9)年には、キリシタン大名とイエズス会の命により、4人の少年が「天正少年遣欧使節団」としてヨーロッパに派遣され、スペイン・ポルトガル国王やローマ法王に謁見しました。1591(天正19)年に彼らが帰国した際には、「グーテンベルグ式活版印刷機」を持ち帰り、これによって日本で初めて金属活字による印刷が行われました。『平家物語』や『伊曾保物語』などの天草本が特に有名です。またこの年から7年間にわたり、天草では宣教師を養成する大神学校「コレジヨ」(大学という意味)が開校され、西洋文化が花開きました。この頃の信者は実に2万5千人にのぼり、まさに天草キリシタン文化の黄金期だったといえるでしょう。
 関ヶ原の戦いの後、徳川幕府に政権が移ると、天草は唐津藩(現在の佐賀県)の飛び地となりました。新たな領主は天草に富岡城を築き、検地を行いますが、実際の生産高の2倍にあたる石高を計上し、領民に過酷な年貢を課します。一方で、幕府は1613(慶長18)年に全国に禁教令を公布。宣教師は追放され、殉教者も現れるようになりました。厳しいキリシタン弾圧と年貢、さらに飢饉が続いたことが重なり、天草で一揆が計画されます。その頃、近くの島原藩(現在の長崎県)でも領民が同じ状況に苦しみ、反乱が企てられていました。両方の首謀者たちは、互いの中間にある湯島(別名:談合島)において会談を行います。そして、当時キリシタンの間でカリスマ的な人気を集めていた天草四郎(本名:益田四郎時貞)を一揆軍の総大将に据え、ついに1637(寛永14)年、日本史上最大の一揆を起こしたのです。これが「島原・天草一揆」です。

天神山からのぞむ湯島

天神山からのぞむ湯島
天草諸島と島原半島のほぼ中間に位置する湯島。島原・天草一揆において、首謀者たちが集い作戦を練ったことから「談合島」とも呼ばれている。

天草キリシタン館

天草キリシタン館
島原・天草一揆で戦いの場にもなった本渡(本戸)城跡に立つ資料館。島原・天草一揆で使用された武器や国指定重要文化財の天草四郎陣中旗、キリシタン弾圧期の踏み絵など、約200点が展示されている。

天草コレジヨ館

天草コレジヨ館
大神学校「コレジヨ」の開校や天草本の出版など、16世紀以降に河浦の地に伝えられた南蛮文化の資料を多数展示。中でも、グーテンベルク式活版印刷機(模型)や天正少年使節団が派遣された際の南蛮船「ナウ号」の模型は必見。

 乱の発端となったのは、この年の旧暦10月25日、島原藩・有馬村の農民が集会に押し入った代官を殺害したことでした。翌日には天草でも一揆軍が蜂起。一揆軍は本渡城など天草の拠点を攻撃し、11月14日に富岡城代の三宅重利を討ち取ります。その時、唐津藩兵との戦いの舞台となった祇園橋のたもとは兵士の屍で埋め尽くされ、せき止められた川の水は血で染まったと言い伝えられています。この激戦の後も両軍は攻防を繰り返し、12月はじめに島原・天草の一揆勢は島原の原城に籠城します。幕府軍は幾度も城を攻め、また兵糧攻めによって食糧の補給路を断ち切りました。弾薬なども尽きかけ、落人が急増。そして2月28日、ついに原城は陥落し、天草四郎は16歳の短い生涯を閉じました。
 「島原・天草一揆」によって、天草は荒廃してしまいましたが、1641(寛永18)年には天領(幕府の直轄地)となり、初代代官の鈴木重成は石高の半減を幕府に嘆願。二代目代官となった息子・重辰の時に実現しました。また、キリスト教徒の改宗をすすめるため、寺社の創建にも尽力。しかし、信者がいなくなることはありませんでした。戦からおよそ160年後の1805(文化2)年、5千人を超えるキリスト教信者が見つかりました。再び弾圧が心配されましたが、圧倒的な人数の多さから、処罰すれば天領経営が成り立たないとし、かつての絵踏や拷問などが行われることはなく、ただキリスト教に関係するものの提出や改宗をすすめられるのみでした。アルメイダ氏の布教から約300年後の1873(明治6)年、禁教は解かれ、憲法でも信教の自由が定められました。
 長い受難の時代を経て、キリシタンの信仰は守られてきました。こうした歴史や文化、異国情緒豊かな自然に心惹かれ、1907(明治40)年には与謝野寛(鉄幹)、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人の文人が天草を訪れました。その時の経験は紀行文『五足の靴』として発表されるとともに、彼らの後の文芸活動にも大きな影響を及ぼしたといわれています。いわゆる「南蛮文学」として、当時の文学界に新しい風を吹き込みました。

祗園橋

祗園橋
橋のたもと(写真右)に祇園神社があることから、その名が付いた「祇園橋」。国内最大級の石造桁橋で、全国的にも貴重な多脚式ということから、国の重要文化財に指定されている。

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