2012年NHK大河ドラマ「平 清盛」の舞台を訪ねて
京都・平安文化の香り

掲載:2012年 vol.10

平安末期の文化と清盛ゆかりの芸術
今から約900年前の平安末期。
政治が乱れ、混迷する時代に武士として出世を果たし、大きな権力を手にした平清盛。
今回は、平氏一族が栄えた京都を中心に、
清盛や当時の平氏が深く関わった平安文化をご紹介します。

京都・平安文化の香り

祇王寺
清盛が寵愛した白拍子・祇王が出家して結んだ庵「祇王寺」。
祇王は、能楽の演目や平家物語の題材にもなっている。

写真提供:小川康貴写真事務所

舞楽・雅楽
舞・音楽・祭り。華やかな京文化の象徴

 京都の貴族層を中心に、日本特有のあでやかな国風文化が花開いた平安時代。舞楽や雅楽もその一つです。舞楽はもともと中国や朝鮮半島から伝えられ、音楽や用いられる楽器も大陸からのものが中心でしたが、平安時代には大々的に整理されます。大陸系の音楽・舞楽の統合と同時に、国風化が進められました。この時、編成の小規模化やいくつかの楽器の廃止が行われ、現在の雅楽と近い形になったと言います。その後、本格的に日本独自の様式を形成しながら、ますます発展しました。平清盛が活躍した平安末期になると、地下人と呼ばれる貴族身分の楽家による演奏が中心となります。その後、数多の戦や明治時代の急激な衰退を経ますが、現在では重要無形文化財として宮内庁学部に継承されるほか、伝統ある神社の祭典などでも奉納されています。
 雅楽や舞楽の大きな特色の一つは、楽人や舞人が身に付ける装束や仮面です。装束は鮮やかな色彩のものや、海末色と呼ばれる、見る角度によって色彩が変わる衣が多く用いられ、仮面は曲に合わせて選びますが、場合によっては化粧をすることもあります。
 清盛もかつて、実の父親とされる白河院の前で舞を披露しました。その後、1168(仁安3)年から始まる嚴島神社への援助をきっかけに、雅楽を宮島に伝えます。中でも、陵王・納曽利など二十数曲が、今なお現地で伝承されています。また清盛は、当時京都で貴族が池や河川に舟を浮かべて楽しんでいた優雅な「管絃の遊び」も、宮島に伝えました。これは神事として執り行われ、現在は「管絃祭」という平安絵巻を思わせる祭りとなって親しまれています。

舞楽/蘭陵王
舞楽/納曾利

上)舞楽/蘭陵王
下)舞楽/納曾利
写真はイメージです。
(クレジット)一般社団法人 雅楽寮日本雅友会

仏教美術
日本最高峰の技が集結した宝物の数々

 平安時代、末法思想を背景にした浄土信仰が広く流行しました。末法とは、釈迦の没後1000年を正法、次の1000年を像法とした際、その後1万年続く「仏教の教えが力をなくす暗黒の世」とされ、平安時代はまさにこの末法にあたる頃。人々はひたすら来世の幸せを願う浄土思想に傾倒するとともに、現世で多くの徳を積むことを望みました。そこに莫大な資産を持つ大規模な荘園領主や院の力が影響し、豪華絢爛な仏教美術が大きく発展。貴族たちは盛んに寺社を建立したり、絵師に来迎図を描かせました。清盛は大乗仏教(法華経)を信仰しましたが、三十三間堂の千手観音などの仏像をはじめ、多数の経典を寺社へ奉納しています。いずれも金銀の箔や砂子、金泥を惜しげもなく用いて、当時の最高水準の技でつくられ、現在は国宝や重要指定文化財に指定されているものも少なくありません。他に、経典を収める経箱なども、大変華やかな細工が施されました。またこの頃、仏教美術は地方にも伝わり、全国で磨崖仏や石仏が作られています。
 ところで、当時の仏教は美術品に多大な影響を与えましたが、一方で平家納経という美術品によって法華経も広まりました。当時はこぞって経典が書写されており、文芸や美術、工芸などの法華経芸術を介して、一般民衆の間にも法華経が信仰されることとなりました。

古代インドの武器がもととされる密教法具「輪宝」。地鎮の儀式に用いられた例もあるという。

古代インドの武器がもととされる密教法具「輪宝」。
地鎮の儀式に用いられた例もあるという。(イラストはイメージ)

焼き物
日宋貿易の繁栄で優れた美術品が渡来

 清盛が活躍する平安後期より以前、平安中期から日本と中国の宋朝(南宋)は貿易を行っていました。これが「日宋貿易」です。
 当時、貿易の拠点となっていたのは博多でした。越前守であった清盛の父・忠盛は越前国での交易の経験をもとに、博多近辺でも独自に交易を行い、院に舶来品を進呈することで近臣となります。その後清盛も、大和田泊(現在の神戸)を開いて瀬戸内海を整備し、貿易に力を入れて巨万の富を獲得しました。
 その頃、日本からは金・銀・硫黄・刀剣が輸出され、宋からは書物や織物・香料・薬などが輸入されました。また、それまでも日本に伝わっていた宋銭や焼き物は、さらに大量に輸入されます。宋銭は、その後の貨幣経済に大きな影響を与えました。また焼き物は、青磁や白磁などの陶磁器が多く、中国や高麗から輸入されるとすぐに平安京左京にある七条大路周辺に運ばれました。清盛の御所があった西八条第は、このすぐ近くに位置しています。日本と宋の貿易は鎌倉時代も続き、その間に油滴天目や曜変天目といった黒釉が特長の天目茶碗など、貴重な器も伝わりました。こうした焼き物は「唐物」と呼ばれて茶人に大変珍重され、茶の湯の文化にも影響を与えました。
 唐物は多くの時代を経て、現在まで貴重なものとして長く愛されてきたため、現在の日本にも重要文化財に指定されるほどの陶磁器が残っています。美術品としてはもちろん、当時の暮らしや文化を知る資料としても世界で高い評価を得ており、ここでも清盛が日本の美術史にもたらした役割は大きいと言えます。

合子とは、身と蓋からなる小さな容器。清盛の実の父である白川法皇らが御所とした三条西殿からも出土している。

合子とは、身と蓋からなる小さな容器。清盛の実の父である白川法皇らが御所とした三条西殿からも出土している。(イラストはイメージ)

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