透析を受けながら活躍する人々

掲載:2011年 秋 vol.08

喜三二さん

大病をしたことで今の自分が
存在していると思っています

喜三二さん

江戸学研究家

本名宮崎光。昭和17年、江戸の場末、東京麻布生まれ。江戸学修業中。べらんめえブログ『喜三二江戸っ子修業手控帖』執筆中。40代半ばまでコピーライター稼業。代表作、トヨタ「いつかはクラウンに」、雪印「毎日骨太」など。本名で著書10冊。52歳のとき、八ヶ岳山麓で山小屋暮らしを始める。数度の危篤後、江戸学を志し現在に至る。透析歴17年。

50代は大病の連続で記憶がない

 6年前、本名で原稿を書いていた仕事が一段落したこともあり、文筆業を一旦、廃業しました。江戸学を勉強し始めてから「気を散ずる」という意味も込めて「喜三二」を名乗ることにしました。
 私は47歳でそれまで勤めていた会社を退職し、「しゃれで」会社を作って広告制作と原稿書きをかけもちしながら、週末に八ヶ岳の山荘に行く生活を続けていました。
 50歳の秋に解離性大動脈瘤で緊急入院。慢性腎不全が確認されましたが、大動脈の血管壁内に剥離した傷があるため、人工透析はできませんでした。腎臓の機能は5〜10%しか働いていなかったのですが、自然に傷が回復するのを待つしかなかったんです。
 52歳の春、傷の回復を待って人工透析に入りました。初めの1ヵ月は体が耐えられないということで透析は1時間しかできませんでした。
 しかし、私の病はこれだけでは済まず、左目の白内障手術を行い、さらに大腸に孔が開き危篤に。開腹手術により人工肛門になりました。半年後、2度目の開腹手術で人工肛門を除去し大腸縫合。今度は開腹手術の後遺症で腸閉塞で危篤に。快復後、腸閉塞を再発してまたもや危篤に。
 50歳代は危篤、大手術の連続だったため、脳が拒否するのでしょうか、何歳のときに何の手術をしたか、まったく記憶してないんです。還暦は迎えられないと思っていました。

自分は「町ッ子なんだ」と気づいた

 そんな私ですが、透析を始めて半年目に東京を離れ、八ヶ岳の山小屋に移り住みました。透析を始めたら透析中心の生活になりますから、世間の都合に合わせられないんです。八ヶ岳には前から住みたいと思っていたので、いい機会だと思ったんです。
 そんな訳で八ヶ岳山麓で12年間暮らしましたが、妻の病気のことと、自身の体力の衰えを覚えて、八ヶ岳を離れました。加えて、東京に戻ろうと決心したもう一つの理由は、八ヶ岳で暮らしてみて、自分は「町ッ子なんだ」と気づいたからでもあるのです。

大病が自分を救ってくれた

 東京に戻った2007年の秋から、現在の自宅から2駅目にある病院でオンラインHDF透析を週3回、5時間、今年の春からは6時間受けています。
 大病をしたことで今の自分が存在していると思っています。透析を受けるようになったことが、広告の仕事から足も洗えて私の命を救ってくれました。そうでなければ、あのままどこまで突き進んでいったことやらと思うと、怖いものがありますね。

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